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社会を語る際、三つの階層に分けて考える必要があります。
個人的階層
政治的階層
信仰的階層
これらはそれぞれ別の考え方をする必要があります。最小の単位は個人的な階層であり、個人の経済的な活動や〇〇権などの自由の権利は個人の自由の階層に所属し、その自由が度し難くならない為に政治の階層でコントロールする必要があるのですが、それが行き過ぎると社会主義政権のような強力な中央集権による個人の自由の制限によって、一方的に政府が個人を苦しめるような構図が生まれてしまうのです。
警察のような政府の権力のみが武器を所持し、民間人のみが武器を所持することが禁止されているという現代日本の状態は、そのような近現代的な西洋思想から見ると権力が不均等で歪であり、個人が政府を監視する機能が不全で、近現代の思想に照らし合わせても、健全であるとは言えないと思います。
社会契約説という近代国家の根本にある思想では、個人が集まった集団が巨大化し、出来上がった政府にその権限を委任するという考え方をします。
この考え方ではあくまで最小の単位は個人であり、個人ありきに国家は存在しているので、例えば時代によって暴走した政権に個人の所有権や言論や表現の自由、守るべき家族などを奪われない為に、"政府だけが武装し、個人は武装できない"という状況は絶対に避けなくてはなりません。
近代国家という発想とその個人主義の中心地であるフランスやアメリカは、このような思想が根強くあるので、それらの国ではあそこまで銃規制に反対し、その銃規制の反対が個人の自由や民主主義にも直結する問題とされているのです。
そして、個人の階層が直接、他の政府との戦争に直結する訳でもないです。
国家間の戦争と個人の起こす犯罪もまた、階層が別の問題であり、分けて考える必要があります。
国家間の戦争というのは国際法や信条の階層における組織的な犯罪であり、意思決定を行う組織の長が多くの人員を動かして行う大量殺人行為です。
対して個人の犯罪というのは、個人の意思決定によって行われる、定められた法律からの逸脱です。
これらは、段階の異なる問題です。
また、宗教的階層の話をするにしても、新約聖書の時代では帯剣することが一般的である描写が多く見受けられます。
"そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。『剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる』」"(マタイ)
イエスは弟子が帯剣していることを当然のように黙認していることから、彼が批判したのは剣を実際に用いて他人を傷付けることであって、当時の時代背景を考えても、個人の権利をより大きな権力から守るための抑止力として帯剣することまでをも否定しているわけではないと思います。
個人が武装することで個人の尊厳が守られ、武器を一度も使わずにお互いに個人の自由を尊重することが大事なのです。
個人の自由の尊重は武装した武器を一種の武装しているという記号として相手に伝え、武器自体を一生使わないとしても可能なことです。
武装して個人の権利を守るというのは世界において歴史的にも一般的なことであって、逆に現代日本のように個人が武装することそのものを否定するような環境は極めて特殊で不健全であり、個々人の権利が奪われているとすら思います。
yuuさんが過去に答えた質問(ランダムに表示)
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